印刷十話

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まえがき

笹っぱ活字館と活版印刷の時代にまつわるコラムとして「印刷十話」を掲載いたします。

第2代社長の故笹氣幸助氏が河北新報に寄稿し、昭和48年4月11日から6月24日の夕刊に掲載されていたものです。

笹氣幸助

明治42年1月仙台市国分町77に生る
大正15年3月宮城県立仙台第二中学校卒業
昭和4年6月笹氣印刷所継承
昭和10年9月宮城県印刷組合理事
昭和12年5月印刷出版研究視察の為渡欧
昭和13年10月米国経由帰朝
昭和23年2月笹氣出版印刷株式会社取締役社長
昭和31年10月アメリカ合衆国指導者人事交流計画に基き,アメリカ国務省より招かれ三ヶ月間に亘り,アメリカ各地を視察
昭和32年11月宮城県印刷工業組合理事
昭和33年4月宮城県印刷工業組合監事
昭和35年11月労働大臣より一級技能検定委員任命
宮城県知事より一級及び二級技能検定委員任命
昭和42年9月笹氣出版印刷株式会社取締役会長
昭和45年11月宮城県知事より県産業功労者として表彰
昭和46年1月労働大臣より「卓越せる技能者」として表彰
昭和46年11月黄綬褒章受章

まえがき

この一文は御承知のことゝは思うが,昭和48年4月11日から6月24日まで,仙台河北新報夕刊に「印刷十話」として掲載されたものである。

この「印刷十話」の執筆を依頼されたときは,私は元来,筆無精だし,書くことはあまり得手ではないので,何度かおことわりした。その上4月末から5週間ほど欧州旅行の予定でもあり,とても時間的にも無理のように思えたからだった。然し同新報学芸部の佐藤氏はどうしてもゆるしてくれず,強引に押し切られた格好になってしまった。時間は2週間しかない。仕方なく急いで書き上げ推敲するいとまもなく出発してしまったような状態だった。

まずはじめの方を書いてみたが,段々に内容が面白くなくなり,私自身もイヤになって来たので中止を求めたが,既に予定されているので,どうしても中止は出来ないとのこと。致しかたなくそのまゝ続けるということになってしまい,お読み下さる方々に大へん申し訳ないことであった。

そしてなにぶん新聞でのことなので,内容は素人向にならざるを得なかったし,字数の制限もあり何としても“舌足らず”であったことは否めない。それに少し誤植もあったし,それを訂正し,解説不足のところは多少加筆させていたゞいた。

そんなわけなので,人さまにこと改めてお目にかけるような代物ではないことは充分承知のことではあるが,いま私どもの会社ではコンピューター利用の文撰植字を行おうとて目下その訓練の最中であり,その練習用として印刷に付したものである。ますますお読み下さる方々に申し訳ない次第である。

文中,失礼なことや,私の考え違い,記憶違いも多いことと思う。御寛恕をお願い申上げるとともに,御教示をいたゞければ幸いこれにすぎるものはない。