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第一話

なんと日本にあった!世界最古の印刷物

人類は,他の動物よりもすぐれた知力を持つことから,スウェーデンの生物学者リンネは,人間をホモ・サピエンス(賢いヒト)と命名した。その脳は特別大きく,重要な機能は,記憶,予想,協同,意志伝達であるとされている。

建築から電子工学まで

人間は,この世へ出現と同時に,話すこと=意志伝達を知り,そして言葉を文字に現わす方法を考えた。旧約聖書によれば「全地(世界)は同じ発音,同じ言葉であった」(創世記第11章1節)そうだが,それが多くの言葉に分かれたのは,人間がバベルの塔を築き,その頂を天に届かせようとしてからだという。その伝説はさておき,各民族は知識が進むにつれ,その考え方を現わす絵画から絵文字ができ,象形,表意,表音文字が考案された。一方では書写の材料である粘土板,パーチメント,ベラム,パピルスから紙の発明となり,筆墨の研究と相まって印刷術へと発展する。

印刷術の発明は,人間の記憶,記録の複写を容易に,かつじん速にした。現在の活版術は15世紀半ば,グーテンベルクが発明したが,当時の宗教界から「悪魔の技法」と白眼視されながらも進歩はやむことなく,19世紀初頭に創案された写真術,そして「動力」と「照明」の協力のもとに急速な発展をとげる。グーテンベルクの時代は,その生産量は日に百数十枚だが,今は美しいカラーの印刷物が,1時間に数千枚から数万枚の高速度で印刷されている。

そして現在の,“印刷文化”として,毎日おびただしい情報を運んでくる新聞や雑誌から折り込み広告,町を行く婦人たちのカラフルな着物の柄,家庭の中では花模様をあしらった電気製品や食器の類,そして家そのものの壁材や天井,机と周囲を見回せば,われわれは印刷物に取り巻かれていることに気づくだろう。さらにラジオやテレビのプリント配線と,電子工学まで印刷術の応用は驚くほど多い。

157人が6年がかり

ところで,読者の皆さんのうちで,発行年代の明確な,現存する世界最古の印刷物は,どこに,どんなふうに残されているか,ごぞんじの方はどれくらいいるだろうか。それは日本にある――と言ったら驚かれる人も多いことだろう。これは奈良法隆寺に多数保存されている「無垢浄光陀羅尼」で,一般には「百万塔陀羅尼」の名で知られている。称徳天皇の宝亀元年(770年)に印刷完了したもので,「続日本書紀」や「東大寺要録」によれば,764年,恵美押勝の乱が平定したとき,称徳天皇の発願で,三重の小さな木塔百万基を作り,根本,相輪,自身印,六度の陀羅尼4種を100万枚印刷,これを木塔に収納し南都十大寺に納めたという。大部分は,戦火などで散逸し,法隆寺に1万基ほど残すばかり。国宝に指定されている。

紙の大きさ,幅5.4cm。長さは4種とも異なるが,最長の根本陀羅尼は57cmあり,最も短い六度陀羅尼は,その半分くらい。この百万塔を1列に並べると104kmになり,仙台駅から南へ並べると本宮駅,北へでは平泉駅までに及ぶ。1カ所にギッシリ詰めると,約11,025㎡と仙台・藤崎デパートの1階から4階まで全部占領することになる。この陀羅尼の印刷には,157人が6年の歳月を費やし,完成と同時に天皇から恩賞のあったことが記録されている。

今と同様,複製版を使用

この印刷方法には,いろいろ説があるが,木版を起こし,それを砂型にとり,銅を流し込んで必要な版数を作り印刷したと考えられている。現在でも新聞や雑誌を問わず多量の印刷には,複製版を使う。1200年前に,大量の印刷に,すでに複製版を作る手段に出たことは非常な驚異であり,意義深いものがある。一面,人間は1000年たっても基本は変わらないものだ。ホモ・サピエンスといわれる人間も考えることは,いつの時代も同じようなもんだ。人間なんて大したもんではないなあ――などとも考えざるをえない。

最近,韓国慶州の仏国寺境内から,この百万塔陀羅尼より19年古い印刷物が発見されたという。内容は,百万塔陀羅尼の本文で,1966年偶然発見された。本邦の百万塔陀羅尼は“呪”の部分だけであるのに,この方は無垢浄光大陀羅尼経の全文で,その長さは6mに及ぶと言う。これは慶州佛国寺境内にある釈迦塔(現在韓国国宝第1号で韓国硬貨10ウォン貨の裏面にレリーフで表現されている石塔)の中の秘宝を盗もうとした泥棒が“開かずの塔”であった釈迦塔の最上部を開けようとしたらしく,少しずらしただけで失敗逃亡した。シテやられたかと1200年ぶりに開塔したら金銅の舎利塔,宝石,宝玉等とともに,この無垢浄光大陀羅尼経が出て来たと言う。これは門外不出の1級国宝としてソウル博物館に秘蔵されている。ただ,日本のと違い確かな記録が少なく,傍証に乏しい。今後の研究に待つよりほかはないだろう。