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第五話

凹版ニセ札の出現 印刷局,紙幣印刷機変える

紙幣,高額収入印紙,国債社債株券等つまり有価証券の印刷には凹版印刷を使用する。これは贋(がん)造を防ぐためのものである。ところが先年チ号事件というのが起きた。贋造1,000円札の出現である。この犯人はついに見つからず,また日本の紙幣印刷を全面的に変えさせた事件である。

10数年前のある日,仙台警察署及び県警本部から電話があり「ちょっと見てもらいたいものがある」とのこと。以前県議選で違反文書が県内にバラまかれた時,鑑定を頼まれ首尾よくその印刷所を発見したことがあった。今度は何かと思ったらニセ札だというので「そのニセ札そのものを見せてほしい」と申し入れた。しばらくして係官が来社され,その現物を見せてもらった。たぶん凸(とつ)版か平版で印刷したのだろうとタカをくくっていたら印刷そのものは大して立派なものではないが,まぎれもない凹版印刷だった。これなら造る場所も人物もある程度絞られるようにも考えられるし,さして難事件でもあるまいとも思えた。

ニセ札造りはワリに合わない

由来ニセ札は一枚々々筆で刻明に手写したもの,紙幣の幅を少しずつ順次に切りつめて 10数枚でようやく一枚分の余分の紙幣を造る方法,その他写真製版でアミ版凸版を造って印刷する方法などがある。しかしニセ札を造るには非常な手間と時間を要する。それほど神経を使ってこんなことをするより,それだけ働けばそのぐらいの金はまっとうに手に入るはずである。先年小学校の退職校長が贋造紙幣をつくろうと印刷機まで購入,製版も出来たが印刷直前につかまったこともあった。全く馬鹿な話。外国の場合は腕自慢のヤツが趣味道楽にごく少量のニセ札を印刷,それが「バレない,ちゃんと通用している」ことを自慢しているのがあるという。

鑑定で特徴5カ所ほど発見

ところで私はこのニセ札の特徴を5カ所ほど発見してそれによる鑑定を提言した。これはテレビでも広く報道され,高橋圭三アナが新宿駅前で集まった人々の千円札を鑑定者とともにその真疑の鑑定まで行った。この時の特長は4つのみ発表され,1つは発表されなかった。それで電話して「もう1ヶ所あるではないか」というと「手の内をみな発表したら犯人はその全部を訂正してしまうだろう。そうなったらどうにも困るではないか。1ヶ所ぐらい極め手は伏せておくのは捜査の常識だ」と笑われた。松島では全国捜査部長会議とやらも催された。「どうせニセ札はそんなに出回るはずはない,この程度のものなら300枚止まりだろう。金額にしてもタッタ30万円。捜査会議ばかりでも百数十万円はかかるだろう。つまらぬことだ」といったら「とんでもない,通貨は1国の信用のうえに発行される。だから打ち捨てて置けない問題だ。何千万円かかっても捜査しなければならない」とたしなめられた。そして私も何度か呼び出されて意見を聞かれた。警視庁でも極力その解明に当たり,よくぞこんなに調べたものと感心もさせられた。係官の1人は東京のある印刷所に通い,その助力を得てニセ札を自分で試作したが犯人の作った方が立派だったという笑い話まで出る始末。結局印刷局ではドイツから数億円かけて新しい印刷機を購入,ザンメル印刷という方法で新紙幣を印刷,現在のものになったわけだ。ザンメル印刷とは,数色の異ったインキを各色の部分版(印刷版ではない)につけ,これらのインキを一旦ゴム胴に集合,それから印刷版に着肉し,この版から紙面に一度に多色印刷を行う特殊印刷法。画線の色が途中から変化し,然も刷合せにくるいは全くない。1万円紙幣の上部の番号の印刷されている地紋,及び正面左側の算用数字の「10000」の上下の花模様をルーペで見ると,1本の線が緑色からセピアに次第に変化印刷されているのがよくわかる。

古い印刷機はエチオピアへ

印刷局の古い機械は廃棄されたはずだが,これらの機械については後日譚がある。私ども全国中小印刷業者のうち同志10人で海外印刷協力会という開発途上国の印刷発展に協力指導しようとの会を作っていた。そして佐藤前総理がまだ総理になる以前から,そのために印刷機一式を適当な国に贈与するのに援助をお願いしてOKをもらっていた。実は印刷機一式といってもその規模で数億円もかかることがあるが,印刷にシロウトの佐藤さんはそんなことごぞんじない。そしてそんな莫大な金額を持ち出したら拒絶されるのがオチだ。だから多少ペテンにかけたようだが「印刷機一式」としてお願いしたわけだ。

チ号事件後エチオピアに紙幣印刷機を寄贈することになり,大蔵省にその機械の払い下げを申請し,その価格はクズ鉄の金額ということにした。これは佐藤総理の約束手形があるので間もなく許可になり,エチオピアに寄贈するというので印刷局で相当な金をかけて完全に修理してくれた。そしたら外務省や通産省からも手続の問題やら援助の申入れが来た。そして東京のヤマトヤ商会社長沼倉順氏(写真製版薬品製造販売,宮城県高清水町出身)がこの機械を持参,ハイレセラシェ皇帝に面会,技術指導者数人,版,用紙,インキも帯同して贈呈した。この計画はすぐに知れわたり製紙,インキ,機械等の大メーカーから早速「海外印刷協力会」への入会申込みが殺到した。然し,これらは中小企業者でやっていることだからと,御厚意は感謝し,全部おことわりした。皇帝はそのため立派な印刷工場を新築され,その印刷開始式には皇帝自ら出席され,同国の収入印紙を初めて印刷した。今も大いに活躍しているはずである。